ことばに魅了されて

憎むとかそういうのではなく

 ここ半年くらい、高校時代の自分を恨んでいる。高校時代の自分を恨むと、非常に面倒だ。なぜなら、思い出が全て色褪せてしまうからだ。“思い出は色褪せても〜”とか、何かの詩にできそうでよく人は色褪せた思い出を美化するのだけど、そんな呑気な話ではない。本当に色褪せた思い出というのは、見返すととても汚いから、思わず蓋をしてしまうものだ。

 もちろん高校時代の自分の努力、というものは何一つ否定しない。今の自分じゃ到底立ち向かうことのできない"アレ"に、彼は持てる力全てを使って必死に戦っていた。勝ち負けはよくわからんが。

 で、何を恨むかというと、言葉を大切にしなかった、そして言葉とか、そういうものに全く感銘を受けていなかったせいで、今引き出しがとても少ない。というか、作り始めている途中の段階だということ。

 例えば言葉を発すること一つにしても丁寧さに欠けていた。ドバババババッと、喋る。言葉が勿体無い。センテンスが勿体無い。彼らはそんな風に発されて死ぬために生まれてきたわけじゃない。もっとこう、徳が高くーなんていうと、一生自慰行為に至れなくなる。やめておいたほうがいいか。

瞬間最高風速など、所詮は

 人を笑わせることに関してだってそうだ。勢いでなんとかする。瞬間最高風速しか考えていない。細かい文脈とか、そういうことは一切考えていなかった。唯一考えていたのは現代文の授業か。先生と心を通わせ、“わかったつもり”になっていた。しかしそれが“つもり”であったことは、大学二年次の基礎ゼミで気づかされる。ああそうか所詮外から見ているだけでは何もわからないのだな、と。本当に理解するには当事者の気持ちに自分を落とし込み、自分も一緒に病んでしまうくらいにならないといけないのだと、今では自明のことをその時にようやっと、理解した。これもつい半年前くらいのこと。

ことばに魅了されてから

 こういうことにきっかけになったのは、恥ずかしながらMCバトル。次々と吐かれるパンチラインは、当事者の人生そのもの(そうでないものに魅力は感じない)。言葉のカルチャーに出会う機会が増えた今だからこそ、こういったことを感じるのだろう。そう考えると、あの頃の自分は大切なものを忘れていたような気がしてならないのだけれど、でもあの時は余裕もなかったし、と許せる自分もいる。

 MCバトルを眺めながら、自分もできるだけ感じたことを魅力的な言葉で伝えよう、と思って思いついたらメモ、メモできない時は反芻、を繰り返すのだけれど、なんせ引き出しが少ないから。むしろ棚がないから、今日も建設の真っ最中。ああしんどい。これはこれで何かに立ち向かうことにはなりませんか、当時の君。

 

アンダーアーマーを着たまま街に出た時に向けられる好奇の目

 久々に(本当に久々に)暇ができたので、街に出向くことに。1年半以上履き続けたadidasのスーパースターは、もうボロボロ。買い換えようと思ったけど、あのABCマートがしばらく改装中だということを今思い出しため息をついた。てやんでえ、次の休みまでどんだけ空くと思ってるのだ。お得意先変更してやる。他の靴屋行くわ。と思ったけれど、他の靴屋が浮かばない。どこにいけば良いのだ…

 いつも通りジーンズなのはいいとして、久々にニューエラのパーカーを着ている。こういう時ブランド物のパーカーは無敵だ。あんまりコーディネートを凝りたくない今日のような日でも、最低限の身なりになるから。でも気づいた。「アンダーアーマー、着てんじゃん…」

 アンダーアーマー。ずっと野球のアンダーシャツとして使ってきたこの服。今はいいパジャマだ。またバイトの際の下着等にもしばしば使われる。コーディネートには、入ってこない。見える、見えるぞ…!妙に主張するハイネックが。しかも今日に限ってマフラーを巻いていないから隠す術はない。周りの人にどう見られるんだ…

 と、1年前は思ったのだろうか。題を結論から申し上げると、そもそも誰も自分のことなんか見ていない。好奇の目を生み出す労働力をも惜しんでいるからだ。誰かとも喋ったけれど、大勢の人波に揉まれると、ふと自分という存在がぼやけることがある。すぐに復活するのだけれど。それほど、1億2000分の1は小さな存在なのだ。

 ここまでを、買い物に行く前に書いた。そして今日はえらく長い時間買い物をした。服が欲しい、似たようなのが同じ値段で2ブランド。どうしようか吟味し二往復くらいした挙句、セールまで待とうという結論。靴屋を4件くらい巡り、見つけた赤のSUPERSTAR。社会人になるまでは少なくとも履くだろう。帰りに入山杏奈さんの写真集を買って帰った。

 1億2000分の1は、今日はえらく精力的に動いた。誰の目にも、大して留まらないけれど。でも、こういった自分が「ウシシ」と思えるようなことこそが人生を豊かにすることはもはや自明のことだ。好奇の目を向けられるのは、他人から目を向けられるのは、そこに責任が伴うから。責任が伴わない、自分だけの、時にふうっと消えてしまえるような、そんな世界をもっていないと、人間は壊れてしまうと思う。久々の買い物は、「自分のため」の大切さを教えてくれたのでした。靴屋はSTEPとかがありました。

GReeeeNとファンモンとナオトインティライミとゆとり教育

"明日 今日よりも好きになれる" わかる。"溢れる想いが止まらない" わかる。"今もこんなに好きでいるのに" ん?"言葉にできない"んんん??

というわけで、今回はGReeeeNというか、その手のアーティストの曲を聴いた時に思うことについてだ。まあ上の歌詞に関しては、"好き"の対象が突然明日→君(言外で)に変わってるのが都合いいなオイ、っていう話。まあGReeeeN、ファンモン、ナオトインティライミあたりの音楽に同じ匂い感じないですか?ぼくは感じます。

ある人は、この手のアーティストを"押し付けがましい"といった。ぼく的には全くもってその通りだ。ファンモンなんか、もう全力投球で150km/hを投げ込んできている。刺さる人の胸にはそりゃあささるだろう。だってめちゃくちゃ速いもん。ただ、ぼくたちのようにそもそものベクトルが違う人たちからすると、隣で150km/hが通過してても、うわ早っ。くらいなもんで、胸には刺さらない。なんなんだろうね。

GReeeeNのタイアップを思い出そう。ユーキャン、ランチパック、ルーキーズ、ルーキーズ(劇場版)、不動産(忘れた)、ほか。なんか共通点見出せてきたよね。基本的に彼ら、これから頑張ろうっていう人に向けて曲を書いている。ええっ、じゃあぼくの胸にも響いてよGReeeeN。だってぼくも毎日がんばろうとしてるじゃないか。

さて問題は、頑張り方のベクトルである。数学の知識は皆無に近いのにベクトルという単語を使って申し訳ない。数学は軒並み2だった。GReeeeNを聴いて自分を奮い立たせる人、back numberを聴いての人、竹原ピストルを聴いての人、いろいろいる。そんなことを考えているとなぜかぼくは、義務教育の息苦しさ、というところに考えが至ってしまった。

義務教育は、その"いろいろ"をあまり歓迎してくれない。ゆとり教育の方針的にはむしろ歓迎しなくてはいけないのだけれど、現場はそうはいかない。ゆとり教育は、みんなで手を繋いで、同じ目標に向かおう、というところに収束していた(少なくとも7年ほど前の現場はそう)。ああこういうのが、多様性というのを刈り取ってしまうんだなと思う。当時は"いろいろ"が原因で人と衝突することもよくあった。

まあまたこれも面白いのだけれど、そういった現場で推奨されるのはGReeeeNファンモンナオトインティライミみたいな音楽なのね。みんな頑張る時は、これを聴いて一緒にがんばりましょうね〜みたいな。HIPHOP聴かせてくれるDOPEな先生は残念ながらあまりいませんでした。そういう先生って、大抵異端扱いされてるのよね現場で。なんだかなぁ。

しかし、ぼくはもう大人だ。だから気持ちの奮い立たせ方はなんでもいい。アダルトビデオでも構わないのだ。ということで自由にやらせてもらおう。今はゆとり教育じゃないと聞くけど、少しは改善されたのだろうか。

結びに。ぼくはGReeeeNだと「いつまでも」と「雪の音」が好きです。メロディがいいよね。映画も少し楽しみ。

日常を大切にしたい時代

Party People(パーティ・ピープル)。大学生になると突如"パリピ"という略称で日常会話に出現したこの名詞。基本的に良い意味では使われないのが現状だ。個人的イメージだが、LMFAOをかけながら集団で縦ノリしてたらそれはもう立派なパリピだ。LMFAOはすごいよ。パリピは一生信奉すべき存在だ。

さて、今回のテーマは"日常"だ。なんか最近、これを重視する風潮がある。例えば"逃げるは恥だが役に立つ"で描かれたのは、契約結婚という非現実的なものに見えて、実際はみくりとひらまささんの、まあ星野源さんに言わせれば、"くだらない"日常だった。日常、つまりは等身大か、その彩り方は人それぞれ。

パリピは、毎日を彩るために、毎日のようにパーティを開く(偏見)。ぼくたちは、日々の中に"くだらない"何か輝くものを見つけては喜び、ツイッターにつぶやく。2〜3個くらい、いいねをしてもらえる。

特別な日というものは大切である。恋人との記念日、誕生日、クリスマス、ハロウィン。しかしそれに限るとなると、年に多い人でも10回くらいしか、楽しい日がないことになる。それは少し寂しくないか?もし日常を真顔で生きろと言われたら、ぼくらの人生はどうなるのだろうか。言わずもがな、すごくつまらないものになると思う。"つまらない"と"くだらない"のニュアンスはだいぶ違うとぼくは思っている。

こういうことを考えていると、今まで全く理解を示さなかったパリピという人種の気持ちも、少しはわかるようになってきたのである。アプローチの仕方が違うだけなのだな、と。根っこのところでは多分一緒なのだ。"くだらない"日常を、彼らも享受している。彩りを、求めている。みんな、大変なんだな。

だが。ぼくはやっぱり、LMFAOが流れても「ああうるせえな」と思うのだろうし、とてもじゃないがパリピの中に入って腰を振ろうなんて思わない。今日もそっと風景とか、そういうくだらないものを切り取ってはツイートし、2、3個のいいねをもらうのだ。

恋愛観(1)

おそらくこの歳までロクな恋愛をしてない理由の1つに他人とのズレがある、はず。中学2年の頃、性教育(直球)の時間があった。そこで「どんな人がタイプ?」っていう時があって、ぼくは「議論ができる人」と答えた。みんなから
、「喧嘩してまうやん」、「幸せそうじゃない」など言われ、賛同は全く得られなかったことを今でも覚えている。当時のぼくはそれに反論する語彙も、人生経験も持ち合わせていなかった。だけど今なら、この問題に少しは向き合えるんじゃないか。今回は、そういう話。
そもそもどういう意味で"議論"と言ったのだろう。正直やべえ中学生だと思う。まあ、こういうことだろう。真剣な話し相手が欲しかったのだ。当時中2のぼくの周りには、はっきり言ってクソみたいな奴らしかいなかった。ヤンキーを筆頭に、自分を守るためにヤンキーの味方をする優等生の仮面を被った腐った根性たち、そして脳みそ空っぽな女の子たち。脳みそ空っぽっていうのは、自分を持ってないということね。中学生だし当たり前かもしれないけど、そうじゃなかった自分にとってはかなりいづらい環境だった(ヤンキーに「この産業廃棄物が!!」と言い放ってた。やべえ)。そのこともあって、俄然真剣な話もできなかった。人生における不安なこととか、楽しいこととか、世の中の不思議なこととか、そんなことを話せる女の子がいたらなあ、ってその時は思ったのだ。まあ、誰もいなかったわけだけど。
そして高校生になり、そういう話をできる人たちが何人かできた。自分にとってそれはすごく幸せなこと。まあ彼女じゃなくて親友なんだけど。
大学生になるとさらに増えた。すごい年上の人もいる。でもこれはそういう環境を追い求めて大学受験をして、自分にあった環境を勝ち取ったからだろう。人は人生の価値を高めるために受験勉強をするのだ。
さて、この考え方、いまも全く変わっていない。ぼくの彼女には常に思慮深くあってほしい(ぼくにというより、世間に)し、多感であってほしい。いろいろなことを感じて、心を痛めてほしい。それを共有するのが楽しいのだ。クソめんどくせえ男やな。おすすめせんわ。
ただ、そういうのが豊かな人生だと、ぼくは思うのです。なんの考えもなしに一緒にいることは、多分できない。

異次元系は切なくなるための起爆装置みたいなもんで。じゃあ、僕たちの当たり前の日常はどうなる?

ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を見てきました。想像していた以上に良くて、最近多い恋愛系映画とは流石に一線を画すものだと思いました。

この話もいわゆる異次元系で、ヒロインは異次元に住む人物です。やっぱり異次元の人とこの世界の人は相容れないらしく、何かしら不具合が生じてうまくはやっていけない...って話を自分自身も書いてて、ああやっぱりそうなんだよなあ...切ないなぁ...と。

じゃあ、僕たちの当たり前の日常からは、そういった切なさ、というものは溢れてこないのだろうか。そりゃあ飛躍した話の方が面白いし、夢も見られるし、余計切ないのだろうけれど。一つ一つの小さな綻び。これもまた、日々を彩るセツナ要素のはず。あの子に一言、何か言えなかったなとか、余計なことを言ってしまったな、とか。自転車の鍵を無くして、新しいのを買い直して、帰宅後引き出しを開けるとなぜか出てきたとか、まあ色々。切ないのかもよくわからないけど。

一瞬一瞬、何気ないものにものすごく文学的なものを感じられる人間としてどんどん成長していきたいもの。

でも、多分めっちゃ生き辛くなってしまうのだろうね。

ぼくとGLAYの出会いを思い出す。

疲れた時、ストレスが溜まった時は不思議と懐古してしまう癖がある。懐かしむだけでは前に進めないけど、懐かしんで元気になれば、前に進む気力が生まれて、結果的に前に進めるからオールオッケーなのだ。

話は変わって僕とロックバンド・GLAYの出会いだ。今から6年前になる(びっくり)、中学2年生の頃。当時の僕は本当にB’zしか聴いていなかった。それ以外の音楽で受け付けていたのは中島みゆきくらいという、ある種ハードロックな音楽の趣味をしていた。そんな僕はある日iTunes Storeでの試聴という習慣をつけ始めたのだが、その時偶然、GLAYの"LAYLA"という楽曲に出会った。LAYLAGLAYのメンバー4人がそれぞれ製作した楽曲で占められる"G4"シリーズの第一弾の収録曲で、当時発売して間もない頃だったため「GLAY」と検索すると上の方に出て来たのだろう。そしてこれが大切なことだが、おそらく同じく上の方にあったであろう有名曲"HOWEVER"や"Winter, again"などを僕はスルーしていた(実際に聴くことになるのは2年後)。この曲いいな、と思いずっと聴いていた。
そして高校生になり、さすがにB’z以外も聴き始めた頃、ようやくその2曲、そして"誘惑"との出会いを果たす。その当時入り浸っていたインターネット掲示板の友人(4歳年上)に「GLAYはいいぞ」と勧められたからだろう。その時僕はボーカルのTERUさんの歌声にべた惚れした。なんてかっこいい声なんだ、と。今専門的な言葉を付け加えると、彼のファルセットが醸し出す切なさの情景に惚れていた、といったところか。
それから僕は、野球をやっていて今ほど音楽を聴く時間がないとはいえ、ずっとGLAYを聴いていた。名盤"BELOVED"を何周しただろう。僕に勧められてGLAYを聴きだした女の子(V系ファンとかではなく、本当に普通の音楽の趣味をしている子)がいたほどである。彼女のお気に入りは"つづれ織り"だった。
しかし、大学生になり、back numberというバンドにハマった上に、それ以外の音楽にも興味が出てしまい、GLAY一辺倒というわけではなくなった。ファンクラブには所属しているため、今年の3月には初めてライブにも行けた。間近で聴く"Winter, again"には心震わされた。

しかしそれでも、聴く数は減った。何故だろう…とずっと考えていたが、今彼らの音楽を聴きながら、不意に高校生活が頭の中で駆け巡っているのを感じる。大人が、自分の青春時代の音楽を今でも懐古して聴くのと同じことをしている自分に気がついたのだ。1996年、GLAYの"グロリアス"が収録されたアルバム、"BEAT OUT!"がリリースされた年に生まれた僕の青春ソングはGLAYの楽曲たちだ。GLAYは、過去の自分の生活を彩った。だから今、聴く必要に迫られないのだな、と納得した。そういうことにしておこう、と飲み込む。GLAY、ありがとう。

最近やたらとアニメタイアップの多いGLAYだけど、今年の1月の"Supernova Express 2016"を聴いて、変わらないGLAYを見れたことに喜びを感じた。だからまあ大丈夫。

やらなきゃ!前を見なきゃ!振り返っちゃダメだ!と思ってた頃はめちゃくちゃしんどかった。ずっとそう自分の中で強いてきた。そうやって生きてきたけれど。最近は敢えて振り返って、懐かしくなって、元気をもらって、また進めるというサイクルが自分の中に生まれ始めている。これは、過去の自分にかなり感謝しなきゃ行けないと思う。

"ここではない、どこかへ"を聴きながら、文章を結ぶ。