PINK SHIRT

文化や思い、街と生きた記録を残す。

インターネットに証を残す

今年に入ってからしばらく日記を続けたが途中から明らかに雑さが目立つようになり、ついにはやめてしまった。4か月くらいは頑張ったのだが。初めは手書きでやっていたが、腱鞘炎をおそれ道半ば挫折。wordに切り替えたがだんだん義務感が強くなってきていて、これは望ましい姿ではないと思いやめた。

 

続かなかったモチベーションは何故なのか。誰にも見られないからだったのかもしれない。そりゃ何事でもない日々を誰か――それもインターネット上の見知らぬ誰かに、個人を特定されない程度にやんわりと綴ることにどこまでの意義があるのか、という懐疑もあるのだが。それでも記録は記録であり、意義はある。

 

YouTube上に、大学時代所属した放送サークルの90年代の映像アーカイブがアップされていた。自分の現役時よりもFM色の強い放送、Mr. Childrenの『Over』が最新の曲として流されていた。無邪気な局員たちの姿が決していいとは言えない画質で記録されている。彼らはいまや40代に突入していて、いったいどれだけ、大学時代の記憶があるというのだろう。

 

しかし、記憶は薄れようとも、記録は残る。愛情は7月にピークを迎え、8月に薄まり、9月には消えた。自分の気持ちですら信用できたものじゃない。それを自分のPCの中だけで留めていては改ざんが行われる可能性だってある。

 

一般人に唯一残されたこの記録媒体ことブログに、ここはひとつ可能性を託してみたいと思い、はじめます。noteはnoteで、まとまったエッセイや短編小説などを書く場所として残すので、ぜひ引き続きごひいきに。

 

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『花束みたいな恋をした』

 批評と切り離した、個人的な感想を書きたい。しかし、インターネットの海に「個人的な」つまり個人を特定できるような内容を放流するのは、危険なことでありおすすめされない。だからあくまでこれは、感想であり批評ではないということ。文学部の論文で教授に提出したら、「これでは感想文ですね」と突っぱねられるような2000字の文章を、ここに表明したい。noteに批評寄りのことは書いたのでそれはそれで見て頂ければ。

 

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 そもそも、坂元裕二が脚本を書いているという時点で少女漫画原作映画のようなストーリーになることはないとわかっていたし、それなりの覚悟を持って見ないと息苦しさで倒れてしまうんだろうなあとは思っていた。そもそも、麦と絹の恋の賞味期限は「5年間」であると予告の時点で提示されているわけである。

 

 それでも、覚悟の仕方をどうやらはき違えていたようで、テアトル新宿のホットコーヒーはとてもおいしいはずなのに、中盤以降口をつけるのを忘れてしまった。飲み込んだら変な味がするくらい、胃を含めた、心情と密接する消化器官がおかしくなっているのは確実だったので、それでよかったと思っている。資本主義社会に出ることと男性性の萌芽。それは確かに、自分にも起こりかけたし、今後も芽生えるかもしれないトピックだ。麦くんを通して、いつぞやの自分を重ねてしまった。

 

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 カラオケで『クロノスタシス』を歌うカップルは実在する。自分もそうであったし、これはベン図の最も重なる部分を的確に捉えた描写だと思う。多分絹ちゃんは「ずっとこんな感じで」いたかったんだろうな。友達の延長線上にあるようなカップル。お互いの好きなものを持ち寄ってその中から折り合いをつけていくのではなくて、同じ本棚を共有する恋愛。その本棚に並ぶべきなのは今村夏子であり柴崎友香であり穂村弘であり「たべるのがおそい」であり、決して「人生の勝算」ではないということ。

 

 一方の麦くんは、「親父に仕送りを花火に変えられた」あたりからだんだん、折り合いをつけることを覚え始める。作中ではその過程がかなり丁寧に描かれる。「1カット1000円ではじめた」イラストの仕事は単価が下がり、しまいにはいらすとやにとって代わられる。「ワンオク」をやたら進める絹の父親との邂逅。飯時に電話がかかってくるとかありえなかったはずの風景は、いつしか二人の日常になっていく。

 

 そして行き場のなくなった恋愛に対して「折り合い」をつけるための結婚の提示。「家にいて好きなことしてたらいい」という旧時代的価値観の発露。「サブ」カルチャーを愛していた麦くんは、すっかり世の中のメインストリートを往く人間になったわけだ。この変貌に違和感はない。朝から晩まで働いて、パズドラしかできなくなるほどに仕事したらそうなるのも理解できる。

 

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 麦くらいの世代――まさにここ数年で社会に出た世代というのは、幼いころに親世代から「男たるもの」を指南された最後の世代かもしれない。責任をもって女性を守る。「家族サービス」のマインド、つまり「何かしてほしいことあったら言ってよ」の精神が体のどこかへ根付いている。その傾向は、相手に対する思いが上昇し、責任感が強まるほど強くなっていく。

 

言ってしまえば、すべて家父長制に基づいているのである。なにか「してほしい」ことを聞くことも、いっぱしの男になろうとして自分の愛するものを排し、できるだけ普通になろうとすることも何もかも。これは責任感を負おうとしているようで、他方から見れば丸投げしている状態にも写る。

 

 この映画を見て思い出した最悪な記憶は、やっとの思いで付き合えた彼女との短い日々。恋愛モード抜群で始まったそれだったが、相手のあまりの就職活動に対する無計画さや、「普通」である人々への批判などに対して私は「論破」をしていた。厄介なのは、その論破が自分の優越感のためではなく「相手の幸せのために」やっているということだ。そして普通に対する違和感の表明に対する理路整然とした反論は、私自身の資本主義社会に出ていく準備が整っていたことを意味する。カラオケでMega Shinnosukeを歌う彼女の隣で私はヒゲダンを歌ってた。ヒゲダンは大好きだけど、一緒にTempalay歌ってあげればよかった。

 

 「いっぱしの男として責任をもって彼女を守ろう。相手のためになんでもしてあげよう」この旧来的な価値観がいかに暴力的であり一方的であるかを浮き彫りにしたことが、この映画のハイライトである。それはつまり、絹ちゃんというキャラクターの意思の強さがこの映画を牽引しているということだ。この二人に起きた本物の奇跡は、ジョナサンにおける、かつての自分たちの生き写しとの邂逅だ。おかげで二人は、いや絹はそうしようとしていたので麦は、か。「よかったことはよかった」と、かつての思い出をしっかり認め、捨てることができた。花束みたいな――を私はそう解釈しているのである。

 

 かつて『500日のサマー』を鑑賞した後に抱いた感想もまた「男でゴメンーーーー!」だった。この映画を『サマー』と重ねることには賛否あるが、少なくとも自分が男という性別であることを自認させる作用が強いことは間違いない。それが悪いわけではない、男として生まれてきてしまった以上それに倣う必要がある場面も多いしそうしないと生きづらい。だがせめて特定の相手にとってはリベラルな存在でありたい。令和は令和で答えがあるはず。旧態依然とした価値観が自分の中に眠っているということを自覚して生きていくしかないのである。女友達の親友に「久住川は女性的ではない」と言われた意味もよくわかり、学びばかりを得た映画鑑賞だった。

 

 とはいえラストシーンで見せる二人の所作にカッコよさを感じ、映画としての感動もしっかりと得ることができた。ララランドでセブとミアはお互いの目を見て過去の日々を讃えあったが、麦と絹は「言わずともわかっている」。

 

 家守さんが麦の夢に現れ「行間」を指南する姿を想像し、笑ってしまうのでした。

 

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